昭和44年04月29日 夜の御理解



 先だってからあの、久留米で信徒集会が有りました時に、町田さんがお話しをする原稿を書いて居りましたのが、お話は出来ませんでしたけれども、その原稿が本になっております、それがあの到る所でその反響を呼んでる訳ですね、どのお話もいいお話ばかりですけど、中にも、合楽の町田という人はどんな人だろうかと、あの人の信心を育てた親ていう人はどんな人だろう、皆なが関心持っている訳ですよね。
 昨日、あの久留米の播磨さんが、あちら総代さんですから、町田さんの話が出て居りました、秋永先生がうしろに、野口さんが居りました。「あの方のお母さんこの方ですよ。」と言うちから、ところがまあその、播磨さんとこの近所だそうですね。ですから、その何がそう云う風に反響を呼んでおるかと、あん時に、行徳先生も、その事の内容の素晴らしさに驚いて、こういう信心が育っておると言う事が、有り難い事だという風に、言うて居られましたね。
 それから先日から、久留米の記念祭に御本部の佐藤先生が見えられました、佐藤先生もそれを大変喜んで居られたというか、あのだったと。とにかくそのどういう所がその代うに反響呼んで居るかというと、確かに合楽の信心のまあそうですね。私が皆に本気で解って貰おうとしておる、所をこうキャッチしておるんですね。文章は却ってむしろ他の人の方達の方がいいと思うんですけどもね。
 ぎこちない書き方しとりますけれども、その許される限りその紙面、あの字数のあれが御座いましたから、それにいっぱい合楽で頂いているのと自分がキャッチしておる信心を語っておる訳ですね、その中にあの御利益、おかげと言った様な事が、もう後から付いて来ておるですみんな、信心というのが先に立って、そしておかげが後から付いて来ておると言う所にですね、こういうおかげを頂く為にこげな修行したと言った様なものではなくて、もう信心が分ることがですね。
 まあ言うならもうとにかく、合楽にお参りする楽しみを第一だとしとるです。そこんところが、まあ言わば今の本部の方達にでもこちらの先生方にも、この頃松栄会の時にも秋永先生に久留米の田中先生が、わざわざその町田さんの話を取り上げて、素晴らしいと言う事を言うておられたそうです。ですからお互いの信心がいうならば、町田さん程度の信心だったら、合楽に沢山おられる筈ですけれども、ああいう風に純粋に、信心を分ろうという人は確かに少ない様です。
 信心によって、そのお話によって開眼しておる、お話によって生き方が変っておるです、変ったらそれに様々な健康の上に、子供達の上に、家庭の和の上に、おかげを受けておるです。そう言う様な事が又立派だと言われておるゆえんだと、私は思うのです。けれどもお互いがどうでもひとつ、本気で矢張り信心を頂こうとする楽しみをひとつ、頂きたいものだとこう思います。
 例えて言うなら、私がこうして今歯が本当ではありませんから、ほんとに美味しい、小味のあると言った様なものを頂けませんと言って、そんならお腹いっぱいであっては、どんなに珍味を前に出されても、それを頂こうとする食欲すら出ません。ですから問題はね、おかげ.おかげ.おかげと言うおかげでいっぱいであるとですね、信心が実に入らんです、自分の都合の良い所だけしか入らんです、ですからそこん所をを空っぽにすると言う事、頂こうという気になるというか。
 言わばお腹を何時も空かしておると言った様な、心の状態というものを何時も整えとかなければならん。例えばこうして夜の御祈念等にもご参拝、例え家の御神前で、神様に今日一日の事をお礼を申し上げる、あれを思い是を思い、本当に万事万端の上に、ご都合御繰り合わせのそのタイミングの素晴らしさ、神様の働きの妙なる働きのす晴らしさ、その事をあれこれと思わせて頂いて、神様にお礼を申させて頂いておると。そういうお礼の申し上げれる日々であると、明くる日はね、確かにお腹は空かすかです。
 今日一日の中に神様のお繰り合わせを頂いておるその働きを、感じられないと言う様な事ではですね、お腹がいっぱいです、不思議に有り難いと、お礼を申し上げる心そういう心にですね。次の信心が次の信心を消化して行く事が出来るという風に私は思います。どうでも一つ、まあそれが認められるとか、有り難い意味において、それが問題になっておると言う事、まあ有り難いんですけれどもね。
 あそこの先生は馬鹿ん事しとるばってんが、信心は良か信者を育てよる言やぁもうそれでいいのです皆さんの信心が本当に育つと云う事ね、そこに例えば今朝から頂く様にですね、夢にも願いと云う事においては一つも願い通りになってないけれども、この様なおかげを受けておるというあの三橋さんの所の人の話を例に取ってお話しました様にですね。自分の願っておる事は。
 成就でなくても願い以上のおかげがですね。この様に成就しておると言う様なおかげを頂く為にもどうでも信心が先頭に立たなきゃいけません。しかもその信心がです消化された、どんなに有り難いお話を頂いてとってもです、それが言うならほんな耳元まで何か、何か今日お話があったばってん眠っとったけんとうとう解らじゃったと。今日のお話は良かったて、有り難かったと言うても。
 自分の都合の良かとこだけが有り難かったのである。と言った様な事ではねいかんです。もう例えば、町田さんあたりが朝の御祈念に朝の仕事ですから。まっその二時頃まで掛るんだそうですから、何時も十時頃参って来るんですけども、もうそれこそ、二篇づつぐらい頂いて、帰るです時間が有る時には、御理解を。だから一緒に来た人は「お母さん、お父さんあなた方帰っとて下さい。
 私はもう一篇聞いて帰るから。」と言った様な頂き方なんです、ですから、その信心によってその生き方が変った、変った所から、周囲が助かって行きよるという、その例えばお話ですから、成る程、是ならば合楽の信心も、ある意味で素晴らしいという風に、まあおかげを頂くだろうとこう思うんですけれどもね。  
 だから、お互いが銘々そういう信心を目指してね行く為に、先ず一つ歯を整えなければならその気にならなければいけん 同時にお腹を空かしておかなければいけん。その中から有難いものが、いわゆる信心が実に付いて来る、いわゆる血に肉に成って行く訳です。それが話になる、そこに金光様の信心が素晴らしいなあと、合楽の信心は有り難いなあと云う事になるんですよね。
   どうぞ。